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騎崇君と騎崇君のお父さん(智一)のこと  2002年6月26日

私建夫が、26歳の時でした、名古屋の中部電力本町社宅に住み、私は名古屋火力センターへ、家内は電電公社(現在はNTT)の伏見町の電話番号案内局へ歩いて通勤していました。
名古屋城まで歩いて10分ほどの、国道に面した賑やかな場所で、智一君は生まれ育ちました。二人とも働いていたため、家内の産後休暇(当時は6週間)が終わると同時に、
昼は電電公社共済会の東区布池町の乳幼児専門の保育所で、夜は交通量の多い国道筋にある社宅の2階でと大変な環境で育ちました。親に似ずいつもにこにこして、愛想のいい子供で休みの時は、名古屋城の見えるお堀端に乳母車でよく遊びに行きました。
小さい時から、他人様の手で育てられるという環境に心痛い思いでしたが、職業婦人として頑張っている家内に家庭に入れ、などとは言えませんでしたし、家内はそういう方がごまんといる環境に働き、なおかつ交代勤務でまでしておりました。
私に稼ぎが、どうのこうのより働いて職業婦人ここにありとばかりに、当時日本のいけいけドンドン高度成長の支え手でありました。こうした環境を知るはずもなく、智一君はすくすくと育ちました。
ところが、今でいうストレスでしょうか当時は、産業廃棄物に伴う大気汚染が環境に深刻な影響を及ぼし喘息まがいの風邪をよくひき、医者に通い薬を飲むとその薬の影響でお腹をこわしの繰り返しで親の仕事が終わって、病院に行き治療を受け家に帰り着くのは、夜遅く9時、10時でした。
大変なものでありました。親にとっても大変でしたが智一君にとっては、幼い体に苦しかったことと想います。しかし、智一君の存在が毎日の生活の支えであつたと思います。
智一君はそういうことに負けることなく、一生懸命に尽くしてくれる両親や保育所の先生方、よく車で保育所まで乗して下さった名古屋の山中さん、同じ社宅の大沢さん等々周囲の皆さんにも支えられ日本の成長と同じようにたくましく障害を乗り越え育ちました。
しかし、2歳半(昭和48年9月)の時、都会生活を断念した父親と共に都城に帰り、熊本の健軍町の公務員住宅に住んでいた、祖父敬三、祖母ヨシエの元で約半年の間育ててもらったのでした。なぜなら、電電公社に勤める母の転勤が、なかなか出来ず、かといって父親は就職探しやその後の仕事で忙しく、子供育ては、料理一つ出来ないので無理なことでありました。
かわいがってくれたおじいさん、おばあさんの元が安全でいいという父親(建夫)の判断でした。
昭和48年中東紛争でオイルショックが発生し、日本も、国際的にも政情不安な時でありました。
翌昭和49年春、母が都城電話局に転勤なるまで、約半年父親とは、2〜3週間おきの日曜日のみ、母親とは、半年も会わずに健軍の団地の中をあちこち元気に遊び回り、
背中には看板広告をお祖母ちゃんに書いてもらっていました。
内容はこの子に何かありましたら、公務員宿舎何号棟の何号植村電話○○番まで連絡御願いします。
というものでした。今でも回顧する度に、智一君につらい思いをさせて申し訳なかった。と懺悔の思い出でいっぱいであります。生きてゆくのに家族みんなが耐えたのであります。
特に、49年早々お母さんに会いにゆこうと、父親の私が、車で都城から熊本まで行き、熊本より智一君と一緒に最終便で名古屋に行くという、熊本空港までの車の中で、
疲れや、母親を想う、緊張なのかひきつけを起こし、意識不明となり熊本大学病院に緊急入院となり、翌朝、母親が名古屋よりの1番の飛行機で熊本の病院にくるまで、
ずっと眠り続けておりました。母親が病院に着くと同時に、昏睡から目覚め、涙の対面となるのでした。
この時、お母さんのお腹には、もうすぐ生まれるばかりの、
妹法子(のりこ)がいたのでした。だからお母さんが、飛行機で来るのは無理ということで、名古屋に行こうとしたところであったのです。
こうして、小さい頃いろんな事を経た智一君が、よき伴侶を得て、今騎崇君の父親となったのであります。よくやった智一君、今度は君が、いろんな経験をしながら自分の子供を育ててゆくんだよ、私とお母さんは、陰ながら応援しているからいつでもお手伝いすることがあったらいって下さい。

智一君昭和46年2月16日生まれ(31歳)
その息子騎崇君平成14年2月15日生まれ(0歳)
智一君の父親建夫昭和19年9月20日生まれ(57歳)
智一君の母親嘉津子昭和20年1月9日生まれ(57歳)
植村建夫、嘉津子ファミリーの世代交代の瞬間であります。

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