中国大連:旅順を行く

2000年12月20日(水)〜12月23日(土

私が、生まれた中国大連、遙か57年前父敬三は、少年よ大志を抱けの夢に燃え中国に渡りここ大連の大連国有鉄道に入り働いていた。鉄道建設は国家プロジェクトとして、大陸の奥深くまで進出し、日本国軍の中国侵略の歴史と、重なることが多いとある文書で読み知った。ここ中国大連で母ヨシエと結婚し、兄幹雄(昭和17年3月生)そして私建夫(昭和19年9月生)が、この世に生を受けることとなる。翌20年8月終戦を迎えるとともに、日本へ生き延び帰る苦難の歴史を、歩むこととなる。父母ともすでに他界した。が、ここでの生活をあまり話したがらなかった、おそらく、筆舌を超えた苦難のこととて、思い出したくもなく、又語っても今後生きていく上で、何の意味もないということかなと勝手に考えている。しかし人間自分の生を受けた生誕地、
北海道の鮭ではないが、一度は行ってみたい、
いや、行かねばならない想いを込めた地である。

僕もゆくから君もゆけ、狭い日本にゃ住みあいた=満州一瞬の夢の国
限りない希望があった。底なしの絶望があった。満州国の27年間

・・井上ひさし作  大連より

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夕方16:30福岡空港を
飛び立ち、
大連飛行場に到着時は
もう暗くなっていた。
レストランで現地の方と
写真に収まる、高橋さんと
(左)嘉津子さん
地下街を歩くと日本にいると同じ
この上は、大連駅に繋がる広場
となっており、勝利広場と命名されている
戦争記念碑
旅順、1905年日ロ戦争の
ロシアが降伏した、乃木希典
大将とロシアステッセル将軍
とが降伏につき会見した
水師営の会見場

記念塔
大連港
大連港
爾霊山
203高地 日ロ両軍が最も
激しい攻防を繰り広げた場所
日本軍死傷者10,007名
ロシア軍死傷者6,000名
乃木大将の次男保典少尉も
ここに命を落とした。
老虎灘公園タイガーをバックに
私たちの旅に同行下さった
NTT宮崎の紳士、淑女の方々方々
老虎灘公園より大連市街を望む
建夫と嘉津子(防寒着が大げさでした)
老虎灘公園タイガーをバックに
女タイガー、昔の三人娘
大連の高層ビル群
旧ヤマトホテル玄関より望む
ホテル窓より大連駅を望む

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